【生成AI遊戯】和辻哲郎の『アフリカの文化』を児童書風にリライトしてみた

タイトル通りです。和辻哲郎の『アフリカの文化』(分類:日本思想)を生成AIに依頼して、やさしい日本語に書き直してもらいました。
一部、「今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現」は別の語に置き換えられています。

アフリカの文化

和辻哲郎

フロベニウスさんの『アフリカ文化史』は、とても優れた本であるとともに、本当に面白い本です。そのおかげで、アフリカの黒人(ニグロ)の人々の暮らしは私たちが体験できるものになり、黒人の文化は私たちが理解できるものになります。私たちはその本によって、いわゆる「未開」の人々をどう見るべきかを教えられます。フロベニウスさん自身が言っているように、人類の文化が一つになることは、ただこのように理解し合うことによってのみ、望むことができるのです。
私はこの本を読み始めたとき、最初にとにかく強い衝撃を受けました。それは私がアフリカの黒人について何も知らなかったせいでもありますが、同時にイギリスやアメリカの人たちの祖先がアフリカに対して何をしたかを知らなかったせいでもあります。私はここにその部分を紹介することで、この本に少しでも興味を持ってもらいたいと思います。

中世の終わりにヨーロッパの船乗りたちが初めてアフリカの西海岸や東海岸を訪れたとき、彼らはそこに驚くほど立派な文化を見つけました。当時の船長たちの話によると、初めてギニア湾に入ってワイダあたりで上陸した時には、彼らは本当に驚かされました。きっちり計画された道が、何マイルも何マイルも途切れることなく街路樹に囲まれています。一日中歩いて行っても、立派な畑に覆われた土地ばかりが続き、住民たちは手作りの織物で作った華やかな服を着ています。さらに南の方、コンゴ王国に行ってみると、「絹やビロード」の着物を着た住民があふれるほど住んでいます。そして、大きく、よくまとまった国には、すみずみまで行き届いた秩序があり、力のある支配者がいて、たくさんの産業があります。骨の髄まで文化が浸透しています。東海岸の国、たとえばモザンビクの海岸でも状況は同じでした。
15世紀から17世紀にかけての船乗りの報告を合わせると、サハラ砂漠の南に広がっている黒人アフリカには、その頃まだ、バランスがとれて立派に作られた文化が咲き誇る美しさを見せていたということは確かなのです。ではその文化の輝きはどうなったのでしょうか。アメリカを征服したヨーロッパ人たちが、このアフリカの海岸にも攻め込み、攻め込んだところは全部壊してしまったのです。なぜか。アメリカの新しい土地が奴隷を必要としたからです。アフリカは奴隷を供給しました。何百、何千という奴隷を、船の荷物のようにして。しかし、人を売買するのはかなり気がとがめる商売です。それには何か言い訳がなくてはなりません。そこで黒人は半分獣だということにされました。また、「フェティッシュ(Fetisch)」という考えがアフリカの宗教のシンボルとしてでっち上げられました。呪物崇拝(特定の物を拝むこと)などというのは、全くヨーロッパ人が作ったものです。黒人アフリカのどこを探しても、黒人の間には呪物という考えなどありません。
こういうわけで、「野蛮な黒人」という考えはヨーロッパのでっち上げです。これがまた逆にヨーロッパに影響して、20世紀の初めまで、かなり教養のある人でさえも、アフリカの土着の人々は半獣のような野蛮人であり、奴隷になるべき種族であり、呪物崇拝のほか何も作り出すことのできなかった未開の民族である、などと考えていたのです。
しかし、この奴隷商人の嘘を暴いたのは19世紀以来の探検家たちです。確かにアフリカの海岸には、奴隷商人が荒らし回った限り、黒人本来の文化は何も残っていません。そこにあるのはヨーロッパの安物の商品、ズボンをはいたみじめな黒人、ヨーロッパ人にぶら下がって生きる黒人の店員、などだけです。しかし前の世紀に活躍した探検家たちが、この「ヨーロッパ文明」の地域やその奥にある境の地域を越えて、「まだ手つかずの土地」にたどり着いたとき、彼らはどこでも、16世紀の船長たちが海岸で見たのと同じくらい華やかなものを見つけたのです。
フロベニウスさんは1906年、初めての探検旅行の際に、今もコンゴのカサイ・サンクル地方で、船長が描いたのとそっくりな村々を見ました。そこの道は何マイルも続いて両側に四重のヤシの木が並んでいました。そこの小さな家はどれも、見とれるような編み細工や彫刻で作られた芸術品でした。男は象眼(ぞうがん)のある刃や蛇の皮を巻いた柄の鉄の武器、銅の武器を持っていない者はいませんでした。ビロードや絹のような布はどこでも見られました。杯、笛、スプーンなどは、どこで見ても、ヨーロッパのロマネスク様式の作品と比べられるくらいの芸術品でした。
しかもこれらすべては、美しく熟した果物の表面を飾っている柔らかく色づいた皮のようなものです。その下にはおいしい果肉があります。つまり民族全体は、一番小さい子供から一番年寄りの老人まで、その身のこなし、動き、礼儀などに、当然のこととして明らかな違いや品格、優雅さを表していました。王様やお金持ちの家族でも、召使いや奴隷の家族でも、その点は同じでした。
フロベニウスさんはそこに教養のバランスを見出しました。上の者も下の者もこれほどそろって教養を持っているということは、北の文明国のどこにもありません。
しかし、この最後の「幸福の島」もまもなくヨーロッパ文明の洪水に浸されました。そうして平和な美しさは洗い流されてしまいました。
このような経験をした人々は決して少なくありません。スピークやグラント、リビングストン、キャメロン、スタンリー、シュワインフルト、ユンケル、デ・ブラッザなども同じものを見たのです。しかし前の世紀には、アフリカの高い文化はすべてイスラム教に原因があるという間違った考えが広まっていました。スーダンの文化などもその視点から見られました。しかしその後の研究によれば、スーダンの人々の美しい服はアフリカ本来のものであって、ムハンマドが生まれるよりも古いです。またスーダンの国の独特な仕組みはイスラム教よりもはるか前からあり、黒人アフリカの農業や教育の技術、市民社会の秩序や手工業などは、中央ヨーロッパにおけるよりも千年も古いのです。
「アフリカ的なもの」は、簡単に言うと、目的にかなっていて、きびしく、しっかりとした構造を持っている、ということです。この特徴は黒人アフリカのあらゆる文化的なものに表れています。アフリカの人々は陽気で、おしゃべりで、楽観的ですが、しかしその心の表現の仕方は、今日も昔も同じく真面目で厳粛です。この様式もいつか始まったもので、そして後に定着したものに違いありません。しかし、その謎めいて古い始まりが私たちには不思議な力があるように感じられるのです。

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「思想」
   1937(昭和12)年11月号

まとめ: 失われた美しさと誤解の歴史

日本思想家・和辻哲郎が1937年に発表した随筆『アフリカの文化』は、アフリカの人々とその文化に対する深い理解と敬意に満ちた作品です。この記事では、原文の内容をやさしい日本語で紹介しながら、アフリカ文化の豊かさと、歴史の中で生まれた誤解について考えてみましょう。

📖 フロベニウスの本との出会い

和辻は、ドイツの学者フロベニウスが書いた『アフリカ文化史』を読んで、アフリカの文化に強い衝撃を受けました。それまで彼はアフリカについてほとんど知らず、ヨーロッパやアメリカの人々がアフリカに何をしてきたかも知らなかったのです。

🏛️ アフリカの豊かな文化

  • 道には街路樹が並び、何マイルも続いていた
  • 畑が広がり、人々は手作りの織物を着ていた
  • コンゴ王国(14世紀末~1914年、現・コンゴ共和国、またはコンゴ民主共和国)では絹やビロードの服を着た人々が暮らしていた
  • モザンビク(モザンビーク)など東海岸でも同様の文化が見られた

これらは、アフリカが「未開」ではなく、高度な文化を持っていた証拠です。

⚔️ 奴隷貿易と文化の破壊

ヨーロッパ人がアメリカ大陸を征服した後、アフリカにも侵入し、奴隷を求めて文化を破壊しました。人々は「半分獣」とされ、アフリカの宗教も「呪物崇拝」として誤って伝えられました。これらはすべて、奴隷貿易を正当化するための作り話だったのです。

🧭 探検家たちが見た本当のアフリカ

19世紀以降の探検家たちは、ヨーロッパ文明の影響が少ない地域で、かつての美しい文化が残っているのを発見しました。たとえば:

  • 村の道にはヤシの木が並び、家は芸術的な編み細工や彫刻で飾られていた
  • 武器や道具は精巧で、ヨーロッパの芸術品に匹敵するものだった
  • 人々の動作や礼儀には品格と優雅さがあり、身分に関係なく教養が見られた

🕌 誤解されたイスラムの影響

以前は、アフリカの文化はすべてイスラム教の影響だと考えられていました。しかし研究によれば、スーダンの服や社会制度はイスラム以前から存在しており、アフリカ独自の文化だったのです。

🎨 アフリカ文化の本質

和辻は「アフリカ的なもの」とは、目的に合った構造を持ち、厳粛で真面目な精神を表すものだと述べています。陽気で楽観的な人々の中にも、深い精神性が息づいているのです。

📚 参考リンク